企画展
橋本雅邦と幻の四天王 ―西郷孤月・横山大観・下村観山・菱田春草―
会期 |
2015年10月31日(土) 〜
2015年11月29日(日)
※休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) ※作品保護のため、会期中に一部展示替えがあります。 【前期】10月31日~11月15日 【後期】11月17日~29日 |
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会場 | 松本市美術館 企画展示室 |
観覧料 | 大人:1,000円(団体:900円) ※ 中学生以下無料、障害者手帳携帯者とその介助者1名:無料 |
主催 |
松本市美術館 |
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共催 |
SBC信越放送、信濃毎日新聞社、市民タイムス、松本平タウン情報 |
協力 |
孤月会 |
関連プログラム
■記念講演会/小川 稔(松本市美術館館長)「明治時代の絵画-日本画を中心に-」
(※終了しました。)
日時/11月7日(土)14時~15時30分
会場/松本市美術館 多目的ホール
料金/無料
定員/80名
申込/10月6日(火)から美術館へ
■ギャラリートーク/展覧会担当学芸員による作品解説
(※終了しました。)
日時/11月13日(金)・20日(金)・27日(金)、各日とも14時~
料金/無料(ただし、当日有効の本展観覧券が必要です)
定員/20名程度
申込/事前の申し込みは不要です。会場入口前に集合。
明治の日本画壇で火花を散らした才能が、時を越え松本の地に集う。
西郷孤月、横山大観、下村観山、菱田春草―。
明治22(1889)年、東京美術学校が開校、画家を志す若者たちが全国から集います。そのなかに彼らはいました。
岡倉天心が目指す日本画の改革を、指導者として、またひとりの画家として実践した橋本雅邦。四人はその教えを受けながら互いを高め合いました。そして、在学中から頭角を現し、卒業後は同校の教官として活躍します。しかし、明治31(1898)年、騒動で岡倉天心が美術学校の校長を辞職すると、行動をともにします。天心、雅邦らと日本美術院を東京谷中に設立し、新たな道を歩み始めました。日本美術院においてもその中核を担い、活動を牽引し続けた彼らは、やがて「雅邦門下の四天王」と称されるまでになります。
志を共有し、好敵手として腕を競い、毎夜画論を肴に酒を酌み交わしたことでしょう。
雅邦門下の四天王。しかし、その時間は長くは続きませんでした。
日本美術院設立の年、孤月は天心媒酌のもと師・雅邦の娘と結婚。将来を嘱望されていましたが、ほどなくして離縁。次第に日本美術院から距離をおくようになります。
明治36(1903)年、大観、春草がインドへ、観山はイギリスへと渡ります。友がさらなる高みを目指して旅立つ姿を孤月はどのような思いで見送ったのでしょう。明治39(1906)年、経営に行き詰まった日本美術院は本拠地を茨城県五浦へと移しますが、そこに孤月の姿はありませんでした。
そして、春草と孤月の早すぎる死とともに、四天王が駆け抜けた明治という時代が幕を閉じます―。
橋本雅邦(はしもと・がほう)(1835~1908年)
天保6年、江戸・木挽町(こびきちょう)の狩野家邸内で御用絵師の長男として生まれる。若くして木挽町狩野家内の塾頭となり、その後、独立。岡倉天心の絶対的な信頼のもと東京美術学校教授として指導にあたる。天心が美術学校校長を辞任すると、それに従い、ふたりを慕う人々とともに日本美術院を設立する。狩野派の作風にとらわれない表現方法を試み、後進を育てた。明治41年、73歳没。
西郷孤月(さいごう・こげつ)(1873~1912年)
明治6年、旧松本藩士の長男として生まれる。本名・規(めぐる)。東京美術学校に第一期生として入学、のち同校の助教授に就任。日本美術院設立には中心人物のひとりとして尽力。将来を嘱望され雅邦の娘と結婚するが、離縁。次第に美術院と距離をおくようになる。台湾で活動をはじめるものの、病のため帰京。大正元年、38歳没。
横山大観(よこやま・たいかん)(1868~1958年)
明治元年、水戸藩士の長男として生まれる。本名・秀麿(ひでまろ)。東京美術学校に第一期生として入学。日本美術院設立後は春草と行動をともにし、インド、アメリカなどで展覧会を開催。美術院の茨城県五浦への移転や、岡倉天心死後の美術院再興では中心的役割を果たす。昭和33年、89歳没。
下村観山(しもむら・かんざん)(1873~1930年)
明治6年、紀州徳川家に仕える能楽師の三男として生まれる。本名・晴三郎(せいざぶろう)。東京美術学校に第一期生として入学し、卒業直後には助教授に抜擢。のちに文部省の派遣によりイギリスに留学する。岡倉天心の死後は大観とともに日本美術院の再興に尽力した。昭和5年、57歳没。
菱田春草(ひしだ・しゅんそう)(1874~1911年)
明治7年、旧飯田藩士の三男として生まれる。本名・三男治(みおじ)。東京美術学校に第三期生として入学。雅邦門下の四天王では最年少。大観とともにインド、アメリカなどを歴訪、積極的に新たな表現を追求し続けた。帰国後は五浦の日本美術院で活動するが、眼病を患い帰京。明治44年、36歳没。