美術館について

館長あいさつ

百年前のマニュフェスト

 

松本市美術館館長 小川稔

信濃路の風にふかれて、心の底から

孤独の影を河岸の土堤にて、ゆきつもどりつした、

この心の虚さ。そして思考のあげくに

わたしは筆とエノグをとって白い白い紙にいくたびか

心の限りの空の青さを描いてみる

草間彌生「華やいだ道」より

 

今年、松本市美術館は15周年を迎えました。美術館を求める当時の多くの市民の力により開館しましたが、この町の人々が最初に美術館設立を思い立ったのはさらに遡り今から百年近く前のことでした。                                            信濃の国の中心にあるここ松本平の先駆者たちは文明開化の時勢にとりわけ敏感であったようです。その証拠が国内最古の初等教育施設の例として知られる重要文化財開智学校に残されています。                                  城下町として武家の文化が支配的だった松本でしたが明治初期、次代を担う子どもたちの教育にまず熱心に取り組みました。大工棟梁の立石清重は新都東京の洋風建築を見聞、幅広い町民の寄付を受けて子どもたちの為に美しい擬洋風建築校舎を建設しました。やがてこの開智学校において美術館設立の声が上がったのです。

明治中期、北アルプスに代表される雄大な自然を愛する画家たちによりわが国の近代風景画がおこるなど、信州を舞台に画家、美術指導者の往来が盛んになります。そのように美術文化が育まれた大正期の松本開智学校で美術館の前身というべき「記念美術室」が開設され、同時に有志により「松本美術館設立の趣意」(1924年)が発表されました。

「郷土芸術の粋を蒐(あつ)めて一般人士の観覧と参考に供し社会教育の一助としたいということ及び、信州に生まれた郷土芸術を普(あまね)く天下に紹介し美術国としての面目を一般内外に発揮して地方文運に貢献したい…」あるいは「文化の中心地たる松本市が有力な美術館を有することは信州の誇りであるばかりでなく文化都市としての一資格であって、先覚識者の率先企てなければならぬ重大なる責務と信じます。」などとの熱いマニュフェストは今も社会における公立美術館の存立意義に通じるものといってよいでしょう。

その後こうした先覚者たちの夢が実現されるまで80年近くかかったわけですが、もとより美術の歩みは単純なひとつの流れではなく平野のあちこちに間歇する泉のように、大小の思いが溢れ出るようにして多様な運動が形成されてきました。
安穏を求めず、誤解や孤立も恐れずに信念をもって自らの道を歩んできた創造者たちがいます。開館15年に臨み、私たちは松本の平野に足跡を遺した先人たちのしごとを伝えていくことに引き続き取り組みます。
それと同時に、これから別の15年の間に起こるだろう、予想も出来ない出会い、草間彌生のように白い紙に心の限りの空の青さを描く若者たちとの出会いにも期待しています。