美術館について

館長あいさつ

空想の旅路

小川館長写真
松本市美術館館長 小川稔

「おいおい、松本へ出る路はこっちだよ」。
これは明治時代に書かれた泉鏡花の名作『高野聖』の冒頭で主人公が飛騨を越え、松本に向かおうとしている場面。旅の僧が本来の道をはずれて異界に迷い込み、つぎつぎに怪奇な経験をするという物語でした。日常を飛び越えたファンタジックな世界は古今の人間の関心事としてつねにありました。今日も通勤電車の車中、携帯電話のタッチパネルに指を滑らせ、こうした世界に遊ぶひとたちがいます。それにつけても現実を隔てた空想の世界が担ってきた役割に気付かされます。ここでは感覚と思考がゆるく解放されてもう一つの別の世界を生きることができ、また、そこから戻って現実世界を生き直す力も得られるのでしょう。美しい夢のような世界だけでなく恐怖や暴力の刺激にもみちた架空の世界。もしかすると世界の半分はひとの想像力がつくっているのかもしれません。そうであれば美術館の展示室も境界を越えた別世界への入り口だといえるでしょう。

春季展「アーツ・アンド・クラフツとデザイン展」は19世紀後期のイギリスの美術、工芸運動の紹介ではありますが、この運動の指導者ウィリアム・モリスは実に豊かな想像力の持ち主で、主著『ユートピアだより』では二百年後の未来社会への夢の旅が語られていました。
現代社会の私たちを異世界、つまり常識では行き着けない世界へ導いてくれるツールとして映像があります。次にご紹介するのは特殊撮影技術を駆使し、時空を超えたもうひとつの世界を創り出す映画監督山崎貴の展覧会です。
今冬、当館は過酷な苦しみと共に生きながら、ファンタジックな絵画世界を唯一の真実と信じた夭折の画家、須藤康花の画業をご紹介します。一昨年、市内パルコでの展示は多くの鑑賞者につよい印象を残しましたが当館では初めての回顧展となります。

中世から松本は国の東西を繋ぐ径路、行き交う人の流れが絶えない土地でした。ここ数年間、感染症のために滞った観光客を始め、ひとの流れが回復しています。このまちに隠されたもうひとつの道、日常を離れた回路での経験を今年の松本市美術館でどうぞお楽しみ下さい。

松本市美術館館長 小川稔