コレクション展示 終了しました 宮坂勝と石井柏亭 —二人の画家と松本と— 2017年11月7日(火) – 2018年2月18日(日) 常設展示室B 展覧会チラシを見る 太平洋戦争末期、多くの美術家たちが戦渦をのがれ、信州へ疎開してきました。そうした人々の精神的支柱となったのは、多くの教え子をもつ宮坂勝と中央画壇で活躍していた石井柏亭でした。 1945年8月、戦争が終結すると、信州には美術を通じて街を活気付かせようという動きが広がります。石井柏亭はその活動の中心となり、各方面に呼びかけをし、同年11月には長野県内を巡回する「全信州美術展覧会」の開催を実現したのでした。日本画、洋画、彫刻、工芸の4部門からなるこの展覧会は、3年後には「長野県美術展」となり、美術家たちの団体「信州美術会」や長野県内各地の美術団体の結成へとつながりました。 その団体のひとつ、松本平に発足した「中信美術会」の会長に就任した宮坂勝は、国画会の洋画研究会の支部を松本におき、画家を目指す若者たちの指導に邁進まいしんします。 作風や制作指導もまったく異なる二つの個性、宮坂勝と石井柏亭。ときにぶつかりながらも互いを尊重し合った二人が松本にのこした足跡を、作品を通じてご紹介いたします。 むすびに、この展示にあたり、宮坂勝の貴重な作品をご出品くださいました所蔵者の皆さまに心より御礼申しあげます。 作品リスト 関連プログラム 担当学芸員が宮坂勝と石井柏亭についてお話します。11/22開催。 画家紹介 宮坂勝(1895-1953年) 現在の松本市梓川に酒造業を営む家の次男として生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科を卒業後、画家を志して渡ったフランスで、自身の作風を根本から見直すことになる。帰国後は母校の松本中学校(現在の松本深志高校)で美術教師として教壇に立ち、地元に美術団体や美術研究会を創設し、後進の指導に情熱を注ぐ。国画会の会員となり、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の教授としても活動。戦時中に実家に疎開し、戦後は信州美術会の支部・中信美術会の初代会長に就任、地元の美術講習会の指導者としても熱心な美術教育をおこなったという。再度、フランスへ渡ろうと画策していた矢先、病に倒れる。享年58歳。 石井柏亭(1882-1958年) 宮坂勝より13才年長で、父祖とも画家の家の長男として東京に生まれる。日本画、洋画、版画など表現方法は幅広い。美術団体の二科会や一水会の創設にも加わり、中央画壇の中心人物のひとりとして活躍。戦争で自宅を焼失後、縁あって松本市郊外の浅間温泉に疎開、そのまま晩年を過ごす。疎開した美術家たちを結集し、長野県内を巡回する全信州美術展覧会を画策し、1945年11月に開催。信州美術会の会長なども務め、宮坂勝らとともに若手作家たちの指導にあたる。また、自身の作品など19点を松本市に寄贈し、美術館建設への道を拓いた。晩年の作品は、信州風景を描いたものが多い。享年76歳。 宮坂勝《上高地六百岳》1928年 宮坂勝《スケート》1946年 石井柏亭《舞姫》1922年 石井柏亭《山河在》1945年